東北関東大震災発生から19日が経ちました。私のツイッターのタイムラインも連日、被災者に対する支援のこと、混乱を極める原発復旧の現状や放射能汚染の懸念、買いだめ自粛や節電に関するツイートが大半を占めています。その間、政府の対応の遅れや東京電力の情報開示の不十分さについて時たま過激な意見が飛ぶものの、どのツイートも被災者を悼み、見舞い、この国の現状を憂い一日も早い復興を願うものがほとんどです。
また地震発生から今日まで、ツイッター上でやり取りされている情報の鮮度や品質も十分に評価に値するものであると思います。この状況を見る限り、私にとっては、ツイッターをはじめとするソーシャルメディアが今回の震災で果たした役割はとても高いと思っています。
ただ、これは私にとってはという事です。
ツイッターはご存知のように自分のタイムライン上に表示したいツイートがフォローという作業で登録しますし、フェイスブックにしても友達として登録します。いってみればこれらのソーシャルメディアにおいては、自分の好きな、もしくは趣味に合う、そして生活身上に合致する情報を発信してくれる情報源を自ら選択して表示させているわけです。
いってみれば、自分がどのようなライフスタイル(古いか)や価値観をもっいるのか、いやらしい言い方をすればどのようなクラスに属しているのかによって、タイムラインやウォールに並ぶ言葉は全く違う景色になります。
今回の震災の場合、私のタイムラインが良識に溢れ理性的なのは、私が属しているコミュニティーが震災に直接被災しておらず、なおかつメディア情報に比較的近く、ネット系のビジネス環境にどっぷりとつかっているためソーシャルメディアの功も罪も理解している人が多く含まれているからでしょう。
もし私が、もっと違う種類の困難の渦中にいたとしたら、私のタイムラインは理性を失い私自身が不確かな情報に踊らされ、あるいは巧妙に騙されたりさえしたかもしれません。
しかしそれもソーシャルメディアがもたらした結果のひとつの方向といえるでしょう。
ソーシャルメディアはコミュニケーションのツールではあります。決して全ての人を最善へと導く福音などではありません。使う人の耳の感度を何倍にも高め、肉声を遥か遠くに届かせるための便利な道具ですが、意思を持って声を発し、その声を聞き分け理解する能力はあくまで、“利用する人の側”にあります。
今回の震災の発生以来聴こえてくる、ソーシャルメディアとくにツイッターに関するマスコミの高評価や、反面ツイッターが広めたデマへの非難のニュースに触れるたびに、私はこの事を強く思いました。
今後、マスメディアに関わる人や企業が、生活者に直接、しかも対等な目線でに届くソーシャルメディアをより熱意を持って活用してくれることで、ソーシャルメディアが社会生活に果たす役割はより一層、有意義なものになってくると思います。